洞斎山人日乗

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

ミスタアHのヒサンなる噺

某月某日
余は断じてみぃはぁには非ざるものなれど、かくかくしかじかあれあれくまぐまの経緯有りて、巷間流行りあると言うなる「そぉしぁる・ねっとわぁきんぐ・さぁびす(長ければ、以下「えすえぬえす」と記す)」なるものに加われり。余は所属せるこみにちぃに触発せられ、えすえぬえす初登場せむとて携帯電話を手に、一文をものすべく、悪戦苦闘をしたり。思いの外長くなりにき一文を、紆余曲折の末にようよう結びの言の葉も思い浮かぶにに至り、いざ締めめくくりの段とせむとて、携帯電話のぼたんを押せるその刹那、余の運命は極まれり。余の心魂込めたる一文は、液晶画面の露か影かとばかりに消え果てにけらずや。この折りの余が心裡の狼狽自責憤慨絶望自嘲倒錯的快感締念を嗤うは愚かなり。
数日後再び気力充溢せる余は再度えすえぬえすでびゅうに臨みて、苦節三十分余、結語を液晶画面に記さむとて携帯電話のぼたんを押さむとせり。しこうして押しにけり。次の刹那、あなや、なんたる運命の苛烈の極みぞや。余の指は過たず全文を消滅せしめたり。これを間抜けと嘲笑うは愚かなり。されど余がその晩早々に布団を被りてぐうすか寝たるは言うまでもなき事なり。
あなや。