洞斎山人日乗

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

株主総会集中日

ここ一週間位、全国で経営者の皆様がつるし上げられたり、けなしあげられたり、さらしものにされたりで、お気の毒な限りだ。エライと言う事は実に難儀である。筆者は断じて偉くなるまいと、益々決意を固くする昨今である(勘違い)。
配当を増やせじゃ増やさんじゃ、経営の参加させろじゃさせたくないじゃ、実にうるさい限りだ。資金を効率的に回さねばならんなんて、誰が決めた?効率的でないところが嫌いなら、はなっからそんな会社に投資なんぞしないことだ・・・無茶苦茶言うとるな、私。株主・経営者・従業員・お客さん・債権者の五方丸く収まる最適解を導き出す絶対的な方程式が世の安中に一個だけあって、誰もが自由に利用できればいいんだけど、そんなもんある筈もないし、大体ゴール点の「最適解」も人によって定義が違うんだからどうしようもない。(一般論として、利益を多ければ多いほど、全てのステークホルダーにより多くを報うことが出来るわけだが、それとて配分比率の問題にまでは、解を提示してくれはしない。大体、「利益を多くする」方法自体に、絶対的方程式など無いのだ。)
この手の見解の錯綜状況を考えていたら、ふとバベルの塔の寓話を思い出した。点にも届く「バベルの塔」を作り、神をも凌駕せんとした人間。結果神の怒りに触れた人間の負った業とは、皆の言葉が通じなくなった事であるが、世の中をあくせく立ち回ってる我々だっていくらでもぶち当たっているとおり、同じ言語を使っていたって、感受性が異なれば全く言葉が通じ合わない事だってありうる。誰が作った寓話だか知らないが、人類の、表裏一体をなす、どうしようもなく愚劣な一面と、たとえようも無く素晴らしい一面とを、端的に表すとうまい話であると思う。バベルの塔の崩壊からこっち(正確には、その前からなんだろうが)、人類は大して進歩していない。まあ、「進歩していない」という事実が判っただけ、マシになったのだろうか?