洞斎山人日乗

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

庵主、本への(ズレた)愛を語る(承前)

 かくも大いなる無駄も伴いつつ、我が本への愛の行動的表現(=衝動的に買って、積ん読状態のまま半永久に放置)はエンドレスに続くかと思われたのだが、家計管理の権限を同居人のクーデターにより奪われてからこっち、すっかり絶え果ててしまった。
 大して広くも無いアパート住まいの身としては、やむを得ぬことだとも思いつつ、また一つ現在進行形でやってきたことが、過去形で語るべき事に姿を変えてしまったことは事実なので、思い返すと「サヨナラわしの青春」などと遠い目をしてつぶやいてしまうのである。ああ、青春とか若さって言葉って、一体どこの言葉だ?
 もっとも、ここ1〜2年の間、肉体的諸条件が確実にオジサン仕様に変化しつつあるのを、実感を持って理解しているので、これら肉体的変化、あるいは人間関係の変化などなどを前提とした人生の楽しみ方ってやつを、年相応に開拓して行きゃあ良いんじゃろうと思っている。年をとるってこと自体は実に結構なことだと思う。若さだけが価値ではないのだ。甲斐よしひろだって、桃井かおりだって、30代以上の方が面白いって、のたまっていたのだ。

 閑話休題。本への(ずれた)愛の話だった。

 ともかく、やたら本は買ったのだ。自分のバカさ加減を解消する手立てがそこに詰まっているように思えたからだ。無論、そんなモノは見つかりはしなかったけど。で、読んだ本はといえば、思い返せば・・・・・・・、結局自分の性に合う本しか読まなかったのではないか、というのが、今思い至った結論。

 妙な本しか思い出せないのだ・・・。

(この項続く)