洞斎山人日乗

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

庵主、本への(ズレた)愛を語る

有体に言うと、庵主は本という物体を愛好している。
本を持っている、いや身につけていると、どう言う訳だか安心できてしまう。

それこそ、休日一人で、たまっている仕事を片付ける算段をするでもなく、体を動かすでもなく、つまりなんら生産的な時間のつぶし方もせず、ただテレビの前に座って、垂れ流されるしょうも無い映像の羅列を眺めやってはパブロフの犬のごとく画面が求めるリアクションをとり続ける、などという不毛な日の過ごし方をしていても、夕方飯を食いに行くとき、本の一冊も持って行かないとなんか気持ちが悪く、ジーンズの後ろのポケットに薄っぺらい文庫本をねじりこんでやっと安心する、なのに飯屋では新聞を読んでいて文庫本はポケットから取り出すことすらない、なんてことを平気でやりおおせてしまうのだ。
少々病的だと、自覚はしている。

前の住処で一人暮らしをしていた頃は、本を衝動買いした成果として、読みもしない本(おつむがついていかないから)が本棚のうちの、無視できない程度の割合を占めていた。題名を見て、中をぱらっと見て、俺の知らん、面白そーなことが書いてある、これ読んだらちったあ俺も賢くなれるかも知れん、買わんかったらきっと後悔する・・・という趣旨のことで20分ぐらい悩んだ挙句、本を買ってしまうけど、家に帰り着く頃には本に出会った折の感激など早や霧散しておるため、つっけんどんに本を開き5分もせずに、ああ難しい、もっと時間のあるときに読もう、なんて捨て台詞とともに本棚に放り込み、半永久的に視界から消え失せる、というパターンは相当回数あったものと思われる。

思えば、もったいない金と時間の使い方をしたものだ。庵主も若かったのだ。(と、書きながら遠い目になるワタシ)。
(この項続く)