洞斎山人日乗

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

書付その4

 「文は人なり」という。
 「文字は人なり」ともいうが、これは文字を書くという活動自体が宗教・社交・政治上重要なデモンストレーションであった頃には妥当しても、パソコン・携帯が文字媒体の主役となっている昨今では、廃れ行く表現かもしれない。
 文の方は、我々が時間と空間にという枠の中で生きて、言語をコミュニケーションのツールとして必要とする限り、日々我々は使い続けるだろうから、「文は人なり」というフレーズは当分すれることは無さそうだ。

 文にはその人のクセが出やすいようだ。筆者子などその典型で、文にその小心振りが見え隠れする。自分の意が伝わるか不安なので、おのずと文がくどくなる、長くなる、冗長となる。だから、どこかで読み返して片っ端から削らねばならない。書いて、読んで、削るを一連の作業で行うのは苦痛だ。分を考えるだけで頭を相当使うから、その後すぐ校正するとなると、集中力が持たない。よって、大抵半日か一日放置し、改めて読み返しと、削除をすることとなる。
 筆者の職業は事務屋である。事務屋の仕事は文書を弄繰り回すことだ。
 弄繰り回すにあたり、上記の如き呑気な作業を会社の仕事の最中繰り返すというのは、一般的には非効率の部類に入る。よって筆者子の仕事は遅く、評価も低い。文は人なり。言い得て妙だ。

 「文は人なり」と言えば、思春期に読んだ文章は、大学生以降書く文書に大きく影響すると思う。人間の本分は模倣にある。文も当然模倣である。模倣するから時代が経ても文が通じるのだ。筆者の文には、恐らく高校生の頃読んだインパクトある文章の表現が大きく影響している。癖のある文体の裏側にある思考・思想のエッセンスは体得できずとも、文の真似だけは(所詮中途半端だが)出来る。かくて、頭も心も空っぽな書き手が、変に癖のある文を弄することとなり、今に至っている。