洞斎山人日乗

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

書付その32

スーパーの肉のコーナーで和牛の肉を見つくろっているとき、必ず目に入るのが
その肉の来歴を示すところの、肉牛の個体毎に割り振られた識別番号である。
この番号を控えておけば、その牛がどこの牧場で育ったか、すなわち生産者が判る
らしい。いわゆる食のトレーサビレイティーの現れの一つということか。

時に、肉の売り場のある一角に置いてあるお肉のパックに記してある番号を、よく
よく眺めてみると、同じ番号のパックが結構な数一固まりにしておいてあったりす
る。ああ、固まりの肉でスーパーにやってきて、切り分けられたのだね。

で、別の一角の違う部位の肉のコーナーでやはり番号を眺めてみると、またもや
同じ番号のパックの集団に出くわしたりするのだ。

この現象に広からぬスーパーの精肉売り場の一角にて出くわすと、ついこんなお
馬鹿な妄想にふけりたくなる。「この店に置いてある同じ番号が付いたお肉を全部
元通り組み立てると、牛さんの何分の一が復元できるんだろう?」

また、こういう妄想にふけった夕方に牛肉が食卓に上ると、その肉切れを眺め、口
に放り込み、わしわし噛み潰して胃袋に送りつつも、次の趣の感慨にふけらずには
いられないのである。すなわち「あの大きな牛さんが、あんな小さな肉片にちりち
りばらばらにされてしまうなんて、ああ、なんて切ないことであろう。牛さんてば、
ホンの数日前までは牧場でもうもう唸って元気に暮らしていたのに、ある日牧場の
オジサンなんぞに笑顔で牧場から送り出された、その僅か数日後には微塵にバラか
されて、もはや影も形も無く、たぶん骨すらも骨粉か何かになって、肥やしか何か
の一部にされてしまうのだ。牛さんも天国で、自己の運命の僅かの間での変転と、
その肉体の変わり果て消えてゆくさまの劇的なばかりの明暗に、さぞかし、目も眩
む思いではなかろうか。命とは何とはかなく、当てにならんものであろう。嗚呼。」

かくのごとく、夕餉一膳を食すの時の、肉一切れを胃袋に収めるに当たりての一瞬
間においても、千々に心を乱す筆者なのであった。