洞斎山人日乗

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

世は平和

 選挙が終わったから平和だ。30有余年も生きると色々しがらみが生じるもので、筆者子のごとき渺たる一給与生活者ですら、しがらみの網に絡めとられるのだから油断できぬ。
 大げさ過ぎるか。

 ともかく、アメリカほどじゃなくても我が国でも選挙は一大イベントで、政治家のおじちゃんおばちゃんがパチンコ屋の如く名前と簡潔な挨拶を連呼しつつ右に左に走っていくんだから、まあ只事じゃないんである。簡潔な挨拶のないようたるや「がんばります」「よろしくお願いします」「がんばっております」「皆様とふるさとのために」「信じてください」「力をください」と言った按配で、簡潔で大変結構なのだが、唯一欠点を挙げるとすれば、一体何を主張したいのだかさっぱりわからない点であろう。先ほど挙げた言葉の内、末の2つなんぞ、シチュエーションを変えればの宗教団体の勧誘と言っても誰も怪しまぬのではなかろうか。

 あんな派手派手しい選挙戦を繰り広げ、その前段階であちこち出かけて餞別だの寸志だのご挨拶だのなんだのとやってりゃあ、そりゃ政治に金もかかるわなあと、サルでも納得できるだろう。あれを民主主義のコストと言うのだろうか。

 大体民主主義政体なんぞ、消去法で残る政治体制にしか過ぎんのだ。独裁や寡占よりは、劇的な改善も見込みにくいが、劇的な状況の悪化も見込みにくいから、よりましなだけである。政体は政治の体制。政治とは即ちお上によるお節介であるわけで、そもそも我々八つあん熊さんにとっは傍迷惑な存在なのである。その方針が大勢で決めるか、少数あるいは一人が決めるかであるが、誰かが極端に損するをよしとするか、なるたけ多くがちょっとずつ損する方を良しとするかの違いにしか過ぎぬ。最も、実際は民主主義政体でも、判断の材料が悪ければ少数が理不尽な負担を負わされることがある。どっちかと言うと、その方が多い気がする。

 よって、ノータリンな給与生活者としては、政治に期待するより、いかに自分と家族が平和に暮らすかを考える方が、当座の自身の課題解決にはより大きな成果をもたらし得る訳なんで、まあ、背伸びして妙なことを口走らぬが良いわけである。

 以上、やる気ない給与生活者の、経綸酔談はここまで。